干拓地事業について
河北潟干拓事業は、昭和35年(1960年)から37年にかけて農林省金沢農地事務所が実施計画を立て、昭和38年から「国営河北潟干拓土地改良事業」として始められました。
干拓事業を行うためには、河北潟の水を日本海に導く放水路を作る必要がありました。このため、ポンプ船を使って高圧水流を放出し、砂丘の砂を削り取ってていきました。削り取られた砂は干拓用に再使用しました。
現在、干拓地は延長17kmの堤防によって締め切られており、干拓地内の水は放水路に出されます。干拓地の平均標高はマイナス2.1m、河北潟の平常水位は50cm、水深はマイナス2.5mで、排水は極めて重要です。
開発当初は日本農業の主食増産の大型プロジェクトとして歓迎・期待されましたが、着手から7年後、干陸式を迎える昭和45年には、全国的な米過剰による減反政策が始まっていました。そのため河北潟干拓地では畑地の造成と畜産団地の建設が進められることになりました。
参考資料:河北潟干拓/北陸農政局河北潟干拓建設事業、内灘町史第二編
事業の年次的経過
昭和38年 |
放水路と堤防の建設に着手 |
昭和45年 |
干陸化にとりかかる |
昭和46年 |
干陸化完了 |
昭和52年 |
減反政策により、開畑に変更、酪農団地の建設が進められる |
昭和54年 |
畑と畜産団地の土地配分完了、一部畑地の使用が開始 |
昭和56年 |
酪農団地への入植が始まる |
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