粟崎遊園
晩 年 の 遊 園
昭和15年頃には、人足も遠のき、浅電の収入もあがらず、昭和16年、小学校の呼称が3月1日から「国民学校」になるころ粟崎遊園も休園となり、そのまま閉鎖に追い込まれた。「北陸の宝塚」の一生が終わるわけである。
閉鎖された遊園の施設は、多目的に利用され、軍の仮兵舎としても利用されたり、昭和19年には日本タイプライターの疎開工場に転用され軍需工場として利用昭和20年には、浅電は北陸鉄道と合併し、浅電独自の歴史に幕をおろした。
戦後、昭和26年4月から5月にかけて遊園の建物を利用してオリンピック博覧会が開かれ、それは、「北陸の宝塚」といわれた昭和ロマン粟崎遊園の悲しい葬送行進曲であった。それを最後に建造物は売りに出され、旧本館の一部を私立藤花高等学校(現・尾山高校)
が買い取り、同窓会館としたが、昭和59年6月には取り壊され、粟崎遊園の当時を語ってくれるものは、金沢市民俗文化財展示館で保存されている大劇場で使用されたピアノだけとなってしまった。
なお、内灘町教育委員会には、各種の資料や大浴場の壁面を飾っていた壁画タイルやガラス窓の一部(山崎忠義氏より寄贈)が保管されている。
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文化・芸術