粟崎遊園
最 盛 期 の 遊 園
平澤没後、浅電の専務東耕三に遊園の運営がまかされた。このあたりは遊園の経営という点では一番の成長期で、4月には金沢電気鉄道会社の市内バス(定員12人)も運行を開始、8月には、向粟崎〜海水浴場間が開通、大劇場でも「グラウンドレヴュー夏のをどり」などを開演、又、季刊雑誌「粟崎」を創刊と充実してきた。この頃の遊園のスターは、ミラノマリ子、音羽君子らの名が見られる。また、金沢からは市内バスや浅電などを利用したが、七塚や宇ノ気方面からの団体客は河北潟の"駄賃船"なるものを利用した。この駄賃船とは、宇ノ気と大崎の中あたりに屋号が"茶屋"という漁船の溜まりがあり、ここから出る漁船であるその船で2時間ほどかけて須崎まで行くもので船の中には酒や重箱を持ち込み、宴会をしたようである。
昭和8年頃には、第二菊水に出演していた「藤井とほる」一座を出演させ、人気を集めた。この一座は、8・9名の小所帯で坊屋三郎の弟、芝利英や枡田洋などで、枡田洋はこの遊園で「益田喜頓」と改名しており、のちの「あきれたボーイズ」の下地ができたのである。
遊園の繁栄とともに浴場は夜遅くなると格安で開放され、遊園の近くの人々が利用し、近隣の人々への配慮もされたようである。
この頃に平澤家の債権処分のため、競売にかけられ遊園は浅電の直営となる。
昭和9年頃には、大衆演劇が落ち込み、レビュー全盛の時代となり食堂も片町のバー「銀幕」の経営者が入り、洋食などがあり食堂が重宝された。メニューを見てみると、氷水5銭、氷コーヒー10銭、アイスクリーム20銭、また、定食Aが1円、Bが1円50銭、Cが2円となっており、スープ、カレーライスが25銭、フライ、オムレツ、コロッケ35銭、ローストビーフ40銭、ハムサラダ45銭などになっている。
昭和9年には、能登方面からの利用者の為に国鉄七尾線宇ノ気駅と新須崎間に「赤バス」と呼ばれる20人ほどしか乗れない赤い色の個人経営のバスが走り、少人数の人や急ぎの人が利用したが、戦時と共に浅電の直営となった。昭和10年頃は、壬生京子や宝生雅子などが活躍したが、昭和12年頃になると、遊園のかねてからの懸案であった独自の粟崎遊園歌劇学校を発足、粟崎生え抜きの踊り子を養成しようとした。しかし、この頃より戦時色も強くなり、粟崎の舞台も軍国調となって、健全娯楽を全面に打ち出し、戦争協力の体制に入ってきた。
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文化・芸術