粟崎遊園
成 長 期 の 遊 園
この頃から粟崎遊園も軌道に乗りだし、4月中に新須崎駅構内発の河北潟遊覧船・貸船も開始。昭和3年からは専属劇団(新国劇の古顔川上一郎を座長とする劇団)と少女歌劇を組織し、「北陸の宝塚」として賑わいだした。浅電も新須崎〜向粟崎間の延長を決定した。新派喜劇や専属少女歌劇団によるレビューが若者に受け、遊園だけでなく浅電も大いに恩恵をうけた。シーズン土・日曜日になると行楽客をさばくのに駅員達は一苦労のようであった。
昭和4年1月7日放火のため、本館を残し焼失した。しかし4月上旬には復興し開園。遊園は以前にもまして豪華になり、浅電も4月14日には新須崎〜粟崎海岸間の営業を始める。当初の平澤の浅電の予定は粟崎から南は大野で金石線とドッキング、北は宇ノ気で七尾線と結びたかったようだ。その夢が実現していれば、内灘町の開発も現在とはもっと違っていたように思うこの頃は景気も悪くなってきていたようであるが、遊園は団体客や、修学旅行の生徒もたくさん訪れ、浅電は金沢駅前朝5時半から夜11時まで運行するほどの利用者があった。
また、夏場には、粟崎海水浴場と粟崎遊園が二人三脚で賑わい、夏には電車賃も三割引や、遊園と海水浴場キップもでき、賑わいを見せた。おもしろいことに海水浴場は男海水浴場と女海水浴場とにわかれていたようすも見られる。また、簡易保険の割引もあるなどいろいろと客寄せには工夫をしていた様子がうかがえる。
昭和5年頃には、ラッパズボンのモダンボーイ、断髪姿のモダンガールが金沢にも散見。モボ・モガ達は香林坊あたりではそのままの姿では歩けず上に何かをはおり、衣装が人目に触れるのを避けたが、浅電に乗るとモボ・モガファッションになった。この頃は、パチンコの前身コリントゲームが人気をあつめ始め、マイカーのはしりダットサンが量産体制にはいった頃である。
昭和7年は粟崎遊園変動の年で、5月30日に川上一郎の死、6月1日に創設者平澤嘉太郎が69歳で他界と遊園経営の重鎮が相次いで亡くなった。平澤が晩年過ごした「羽衣荘」跡地には「平澤嘉太郎翁の碑」が昭和33年に建立されている。
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文化・芸術