粟崎遊園
遊 園 の 誕 生
浅野川電気鉄道は、大正12年3月、資本金30万円で金沢市堀川町から須崎を経て向粟崎に至る区間で設立許可申請を平澤嘉太郎ら24名が発起人となり、設立認可申請を提出し、同年5月に許可がおりる。同年6月には、堀川町から金沢駅前まで延長するために資本金40万円とする。
翌大正13年には平澤嘉太郎は浅野川電鉄の付帯事業として向粟崎に遊園地の開設を計画、土地6万坪を内灘村から借り、資本金10万円を投じ準備を始めた。これは、平澤嘉太郎が阪急電鉄の小林一三の生き様に影響されたことによるものが大きいようである。
小林一三とは箕面有馬電気鉄道という小さな軌道会社の専務に就任し、客寄せのために箕面公園に動物園をつくり、宝塚に新温泉を開湯し、大正2年に少女歌劇を上演(今の宝塚歌劇団)した人物。大正4年には朝日新聞社後援で第1回全国中等学校野球大会を豊中で開き客を寄せ、箕面有馬電気軌道の社名を改め、大正7年には阪神急行電鉄とし、今の阪急をつくりあげた。
大正14年5月10日に七ッ屋ー新須崎5.3・が開通すると、7月19日には平澤は私財35万円をかけて粟崎遊園を開設した。9月にはコドモのクニもオープン。北陸の宝塚の第一歩を歩み出した。
同時期に金石浜に金石電気鉄道が「涛々園」を開設二つの電気鉄道が競い合ったようである。
大正15年には浅電は、七ッ屋〜金沢駅間を開通。また、平澤が小林一三を目標としていたと見られる点として、昭和2年には粟崎遊園で全国中等学校野球大会を開く。これは入場料はとらず、電車の利用客を増やそうとしたもののようで、2
[暮らしの分類]
文化・芸術